昭和52年10月04日 朝の御理解
御理解 第96節
「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てるな。神が顔を洗うてやる。」
信心をしておって、どうしてあんな事を言うたり、したりするだろうかと。これは信心のない人、または信心の薄い人が言う事なんです。信心させて一途に神様へ向こうていく時には、信心のない者では、とても想像もつかない考え方と言うか、その進め方がやはりあるのです。そういう時に神様の顔に係る様な事を人が言う。これが本当だと思うておる事を、やらせて頂いておるときに、人が神の事をとやこう言うと言う。それは必ず神のヒレイであるが。
信心のない人でも思わないような、行わない様な事を平気でするような人も中にはあります。この頃昨日でしたか、合楽で次々この財布が盗まれる。金を盗られるしかも必ずその財布は、どこにかこうほうたらかしとる。昨日は聞きました。水槽の中にこうして出てきた水槽の中から。それであるお母さんが、マルショウに行っておるその事を聞いて、色々なここではですけれど、色々度々話があっているのでしょう。マルショウの中に、そげんとがおりはせんじゃろかと言う様な事を聞いてね。
あんたどんもああして、朝から晩まで合楽でおかげを頂いておるが、あんただんそういう事はあるまいねと言うてその、言うたらその子供が「僕の目を見なさい」ち言うたち。例えば「合楽理念はどう説いてあるお母さん」と言うてその、質問したと言うのです。折角僕達がこれだけ子供ながらも、あのそれこそ学校よりも信心というくらいに打ち込んで、その打ち込んでおる事が、そう言う事が、「もし僕がほんならしたとするなら、それがもう一遍に水の泡になってしまうとよ、お母さん」と。
息子から長々説教聞かせて貰うて、まあ安心するやら嬉しかったりしたと言う様なお届けが、昨日ございました。だからその確かにほんなら、ここのとても他所から来るとは思われませんから、信心のある者の中にでも、ほんならわざわざ下駄を履き替えていったり、本当にその財布を抜いたりと、言う様人がい、ないとは限らんと言う事ですよ。だからこう言う事は、やっぱり許されませんよね。ほらもうあの神様はそれを認めなさるはずがないのです。
けれどもその信心を、本当にしておらなければ分からない事があります。例えば昨日この梶原先生の兄さんが参ってきます。しかしほんとに、私はこの合楽の有難さというものは、弟の信心を通して分かる。大体天理教の方ですから。金光様のご信心、いや特に合楽の信心が有難いと言う事が分かって、もう本当に毎日、日参をして見えます。何という病気か知りませんけれども歩く時にはこう、くの字になって歩きよりなさいましたですね、身体がこう。
何か私はなんという病気か知らんけれども、それがおかげを頂きまして、この頃は真っ直ぐしゃんとした歩るきが出来るくらいにおかげを頂いて、もうとにかく金光教の教えを頂くと言う事が、まとにかく合楽で頂く教えが有難いという感じです。昨日お参りして見えて、今失職中ですからあるところに、その就職のお願いがしてあった。ところがその面接試験が、丁度十月の十六日の、ここの御大祭の日になっておる。
その面接の試験の通知のあった通知表を持ってみえて、実はこういう風にして参りましたけれども、僕は十六日の御大祭の日に来ると言う事は、これはもう御神意に叶わん事と思うて、あの行かん事に決めましたから、どうぞよろしくと言う事でした。例えば信心の薄いもの、本当に信心が分からない者なら、必ずどっちを取らせて頂いたら良いだろうかと言うでしょうね。
もし私がどっちを取らせて頂いたらよいだろうかというなら、そら折角お願いしとるとじゃけん、就職のその面接試験の方に行ったが良いだろうと言うでしょうね。またそういう行きかたで行けばです。いうならば自分の顔も立ち、なら周囲に人も、はあ金光様の信心ちゃ有難い事だなあと、それに限らずまあそういう人間心を使うていけば、顔に関わる様な事は言いませんですね。
そりゃもうある教会の先生、ある教会の奥様もう非常に人情こまやかに、そういういうなら信心しておるから、人から笑われるようなこつがあっちゃでけん。コリを積ませるようなこつがあっちゃでけんと言うて、もう町内からいうならば、あの何て言うでしょうかね、表彰でも受けるぐらいな、その人のいうならば手本になるような、その奥様がおられます。はあもう行き届いた事です。
ところがそう言う所では、信者が助からんから不思議ですね。決してその。信心の無い者でもするような、例えば悪い事をして、はあ金光様の信心しよってと言うのじゃなくてです。もちろんそういう事をしもしません、信心しよりゃ。けれども人情で例えば信心のない者からでも、素晴らしい素晴らしいと認められる様な人の所では、先ずは教会にゴヒレイが立たんですね。
神様の働きを全部止めてしまう様な事にしかならんです。教祖の神様は信心のあるものでも、無い者にでもいうなら、顔が立つような両方が立ち行くような生き方をなさったと言う様な事を、よく言いますけれども、決してそうじゃなかったと思います。教祖様が御神命のまにまに、わらじ草履を履くなとお知らせを頂かれて、田んぼに出かけられるのに、裸足でおいでられた。裸足の行をなさっておられた。
それで世間の者が。文さんは神様神様と言うて、いうなら信心きちがいの様な人だと言うふうに評判をしております。ですから草履を履いていってもらわないとと言うて、奥様がまあ小言を言われたときに。神様のぼせをして、草履を作る暇がないのじゃない、ちゃんと草履をこうやって作ってあるんだと。それを皆に分かってもらうために、そんなら野良に出るときには、鍬の先にわらじを付けていけ。牛を引いていく時には、牛の背中にわらじを付けておけと仰ったと。
そういう一つのがありますから、ありますけれどもけれどもそう言う事でも、やはりこりゃ信心しとれば、あげな事せなんだろうかと言うたに違いはないです。ただその場限りの奥様に対する言い訳であって、私はそれを例えば信心のある者にでも、無い者にでも分からせられると言う様な事は出来ないと思う、その過程においては。もうお前がそげん言うなら、明日からわらじを履いていこうと、というふうには言っておられないわけです。さあ今日は親戚の誰それが亡くなった。お悔やみに行け。
それこそ親戚中誘い合い連れ合うておい出られる。実は当の本人がそのまあぴんぴんしておられたと。もうそれこそ穴でもあったら入りたい思いではなかったろうかとこう思う。それでも神様は。それこそ戻しの風は十層倍と言うて帰れと、そういう時ほど十層倍のおかげが受けられるときだという事なんです。だからその過程においてはね、信心のない者では分からないと言う事です。
だからそういう時には、神の事をとやこうに、例えば言う様な事があるけれども、そういう、神様の仰せには背かれんという生き方で行っておるときに、神様人がとやこう言うなら、それも神のヒレイだと言う事です。椛目の時代に、吉木丁度椛目の上は吉木ですが、からお参りをしてきておった。もう丁度若先生が小学校のとき、友達でしたが、もう身体中もうカサが出来て、言うならカサ八、カサ八と人から言われる。もちろんもうあらゆる薬、あらゆる温泉というとこにも行ったけれども治らない。
それで当時の椛目にお参りをして参りました。もうその人が座ると座ったとこへカサのツが落ちて、もう本当に汚いぐらいありました。それでもうお神酒さんだけで、当時はお神酒さんやら御神水でしたね。それで一生懸命まあお参りをしてきました。村内のものが、あげんとが金光様でようなるごたるなら、吉木の村のもんがみんな参るばのと言うぐらいにあった。ある時学校に迎いに行って、それから学校から椛目の方へひと下りして、親子で参って帰りよった。
それこそ学校へ行って帰る時間がくりゃ、丁度その子供達がその何か輪を取り回して、なんかしとるけんと思うて、こう行ってみたところが、自分の子供が真ん中におってから、もう石を投げたりカサ八ち言うたり、みんなでこなしよった。それでもこう押し分けてから、子供ばかき抱いて。逃げるようにしてもうあの泣き泣き、当時の椛目に「先生今日はこんな事でした」と。本当に親としてこんなにつらいことはない。神様にその事をお届けさせて頂きましたら、丁度あの立て札ですね。
ここのあの入口に車止めと書いてあるでしょう。ああいう立て札が立っておるとこを頂きました。今は、村内のもんでも、そう言うて笑いよるだろう。子供達でも子供達からでも、カサ八と言われてこなされておるような事もあろうけれどもね。これはねいうならば、神様の言うならヒレイを頂く事のために、神様の宣伝をしておるようなものじゃと頂いた。神様から必ず。顔を立てて下さる。
それから間もなく、もうそれこそ色の白い子でしたが、もうあのそのごに参ってこんようになりましたけれども、北野の大体北野からきとる子ですから、あの秋山さん達はよう知っておりますが言っておりました。この人はもう夏でも汗子一つ出来んくらいに、もうちょうど年頃になってからでしたけれども、とても綺麗な青年になっとるという話を聞いた事がありますけれども、身体中の言うなら悪素悪臭と言った様なものが、お取り祓いを頂いたんでしょうね。
そういう時に医者にも掛ったり、あっと言うたらみんながそれを認めましょうし、神様の事もどうもいやしません。けれども医者にも掛らん薬もつけんというもんですから、村内のもんが、あげなもんが金光様でようなるごたるなら、村内中の者が参るばのと言う様な、悪口を言う様な時代があったけれどもです。神様が顔を立てて下さる、顔を洗うて下さる。神様へ向ける一心がそうである場合は、神のヒレイですけれども。
信心がない者でも思いもせん、しもせんというなら悪徳的なことをやったんでは、これは神のヒレイとは言えません。それこそ神様の顔に泥を塗る様な事になりましょう。勿論この神様はその、幾ら泥塗る様な事を言う人がありますけれども、そんな事で神様がびくともなさるような神様じゃない。また顔を汚しなさるような神様でもない。けれどもやはり神様のヒレイで神の事をとやこう言うのと。本当に良いから本当に悪いから言われる。信心させて頂いておるからとやこう言うと。
信心しとるもんだからあんなじゃから、私どんは好かんというふうに言う人が良くあります。もうこれは沢山色々例がありますですね。それは神様を何時も中心に頂こうとするからです。ですから神様人間を中心じゃないから、人間では分からんことがあるはずなんです。人間にも合点させ、神様にも合点してもらうと、そういう生き方はあり得ません。無いですいやあったとしても、それでは御神徳は受けられないです。神様を中心じゃないから。隣近所が中心だ例えて言うと。
北野の中村さんが、あの主人になるお父さんが大変具合が悪かった。それに御本部の月参りだけ欠かした事が無かった。もう本当にあげな重病人ばほうからけちから、中村さんな御本部どん参ってからち。非常に笑われたりまた心安い人は悪う言うて、悪う言いに注意に来た。「んにゃ神様にお願いしとるけん、大丈夫ばの」ち。言うた勢いの時分ですから、お参りさせて頂いて帰ったら、おかげを頂いて大変気持ちも、気色も良くなりおかげを頂いて、病気が快方に向うと言う様なおかげを頂く。
そう言う様な場合なんかはね。例えばこんなわけですから。月参り神様にお約束しているのですけれども、親先生がおいでられるときに、もう絶対ご本部参拝をたさせて頂くとこう決めておる。決めておりましたけれども。主人がこんなわけですから、この度は御無礼しますと。誰もそれに「そげな事ほうからけて参らんの」と、私は言いはせん。けれどもこれはどこまでも人間を中心にした生き方です。けれどもそれを神様を一にも神様、二にも三にも神様という生き方からしかです。
ここで言われるいうならば天地のリズムを聞くと言う様なおかげは頂かれないと言う事です。もう信心するもんは、神様一途に向うときにはです。まあある場合では、まあ風雅人のように、変人のように見られる。けれども信心で言う変人にならなければ、信心は出来んと神様が仰っておられます。ああもう繁雄さんたちはもう結構なこっじゃある、もう毎日背広どん着てネクタイどん締めちから、毎日合楽通い。
そしてみんな昼頃みんな畑の中に、みんなが出ておる時分にまた帰りなさるから、やっぱ陰で色々それを私に言うてくれた人もありました。けれどもそんなことはまあ、平気であるかけれども神様へ心を向けておるのだからと言われるのか、それを通りぬかれたら。この頃では成程なるほどと合点が行くようなおかげを、自身もやっぱ頂き現しておられて、ほんなら隣近所のもんでも、やっぱそれをほんなら、お野菜一つでも本当にあそこが作らっしゃるもんさえ作っときゃ良かとか。
あの人が出しなさる、市場に出しなさりさえすりゃ高う売れるとまで言うように、段々なってきた。と言うてもその真似では、またいけないと言う所がございますけれどもです。世間のもんから笑われ、まあ本当な事をして笑われるのは、神のヒレイと仰るのですから。神のヒレイというのは。神様の勢いの余ったと言う様な事なんですから。それが神様を動かさないはずがありません。いや神様を動かしておるから、そういう神の事をとやこうと言う事にもなってくるのですから。
そういうときにはお礼を申し上げておけば良い。けれども信心を頂いておりましてもです。だから私は信心が巧者になって参りますとね。もう人の目ばかり人の口ばかり。信心してからそげな事してから。信心しとるからそげな事やっちゃいかん。もうそういう人間心ばっかり使うもんですから、神様の生き生きとした働きは、一つも受けられなくなってしまう。だからそこを一遍通り抜けさせて頂いたときにです。
初めて成程一時は信心のぼせの様に、皆が言いよったけれども、やっぱおかげ頂きなさった。流石に神様じゃと言う事にもなるのです。だからやはりここを通り抜けなきゃいけません。昨日その梶原さんのお届けじゃないですけれども、十六日はここの御大祭ですから就職もしたい。けれども是はもう御神意に叶わないものだろうと思うてますから、面接の試験には参りません、大祭の方へおかげを頂きたいからとこう言う。
信心の無い者なら家の者やらは、そげん神様神様ち言わんでん、あんた後でこうして参りゃ良かじゃんの、朝ん内ちょいと参ってくりゃ良かじゃんのとも、言うようならば、言う事でしょう。いいやもう十六日は大祭だから絶対、と言うような絶対という生き方が、本当な事であり、神様へ向けてあっての事で、神がいや神の事をとやこう言うのならば、それは必ず神のヒレイになるです。そこからですねいうならば、神様を中心の信心ですから、神様と交流するから。
そこに神様のリズム音というものが頂けて来る様になる。もう人間心使う人には絶対、天地のリズムなんて言う事は、分からないでしょうね。分からんなりでしょう。ところがそういう信者が、今どのくらい沢山おるか分からない。こりゃ皆さんの上でもそうです、これが本当だと思うときにはもう、お伺いじゃいかんです。これは本当だと。例えば今の梶原さんの場合なんかそうです。
実は丁度その日がこげんなっとりますがと。どっちを取らせて頂いたらよいでしょうかと。日ごろ稽古させて頂いておる信心ではっきりと、そこに決まる答えが出るようなおかげを頂いて。そして神様の方を、信心の方を取らせて頂きますからと言えるような信心を、やっぱ身に付けていかなければ。神が顔を洗うてやるという。神様が顔を洗うて下さるという時には、素晴らしいです。
病気であったなら、ほうもう薬も飲まず医者にも掛らんな、あげなおかげを頂きなさったと言う事になるでしょうもん。経済の面でいうならば、もう本当にやっぱ神様のおかげじゃあるなあ。それこそお金んどん不自由しなさる様な事は、なかろうようなおかげを頂きなさったと言う様な事でしょう。顔を洗うて下さるのですから。言うならそういう例えば神のヒレイ。
はあ神様の悪口を言うような時には、言うなら神様のむしろ、宣伝をしておるような時なんです。だから神様が喜びなさらんはずがない。神様の宣伝をしておる時には、言うなら人から笑われたり、悪口を言われたりする時もありましょうけれども。そういう時に腹を立ててはならんと言うのです。又はそういう時に信心が、ぐずぐず迷うてはならんと言うのです。神が顔を洗うてやる。神様が顔を洗うて下さるという。
神様が顔を立てて下さる、そのおかげと言うものは。神様もお喜び下さってのおかげですから素晴らしいのです。人にも障らん神様にも障らんと言った様な事はあり得ません。そういう場合にはね。分からんのだから、神様の事が。信心の事が分からんのだから。そこを私が頂いていくというか。通るとこを通るというならば、そう言う所を通らせて頂く事だと思います。天地のリズムを自分の周囲に、何時も聞き続けるようなおかげは、神様中心の信心からしか生まれないと言う事でございます。
どうぞ。